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意味とは何か

情報の生成から行動につながるまでの過程


「情報とは意味そのものであり、差異や区別のことである」ということを『情報とは何か』の記事で論じたが、“意味を理解する”ということは一体どのようなことであろうか。改めて考えてみる。


まず、情報の元となるものを受け取り、実際の行動につながるまでの過程を整理する。

様々なモデルが提案されているが、ウィケンズ(Wickens)の人間の情報処理モデル(Human Information Processing Model)を簡略化したモデルをここでは取りあげる。


人間は、目や耳などの感覚器官を通じて“外部からの刺激”を受け取った後、自分の持つ知識(今まで蓄えてきた知識)を利用して刺激を情報に変換するという処理を内部的に行いっている。


“刺激を情報に変換する”とは、ネットワーク状(網目状)に結び付いた知識のつながりが頭の内部にあったときに、受け取った刺激を自分の知識ネットワークのどこかに結びつけて、“要するに、それは〇〇〇ということである”と自分の言葉で要約して説明できるようになることを指している。


その要約処理を正しく行えたときに、はじめて「情報が生まれて意味を理解した」ということになりる。知識ネットワークに対して正しく紐づけを行えた刺激のことを“情報”と言い、知識ネットワークに紐づけを正しく行うことを“意味を理解した”と言う。


意味を理解した後は、その情報に対して何らかの感情が身体の内部で生まれる。たとえば、何かを見たときに“怖い”と感じたから背筋がぞっとする反応が身体で生まれるのではなく、何かを見たときに背筋がぞっとする感覚を身体が感じ取って“怖い”という感情を抱くようになっている。


感情を重要なインプットとして、知識をベースとした意思決定が行われる。


「論理をベースにした理性的な判断が最初に存在して、その後に意思決定がなされるのではないか」と思う方もいるかもしれない。しかし、人間の意思決定では「好きか嫌いかという感情が先にあって、それをもとに何を選択するかの結論を決め、その結論を自分自身の中で正当化するために後で理由や論理を考え出す」という順序で処理が行われる。


意思決定した後は実際の行動に移され、外部環境にある対象に対して何らかの力が加えられると、その結果が感覚器官を通して返ってくる。そして、その結果を解釈して、次の意思決定を行うという流れが繰り返される。


知覚→思考→意思決定→行動→(知覚に戻る)の一連の処理であるが、“注意資源”を通じて制御がなされる。外部から入ってくる刺激の全てに対して逐一対応していると、処理量が人間の容量を超えてしまうため、不要と判断した刺激を無視するようになっている。何の刺激を重要視するかしないかに対する注意資源の配分は、その人の持つ概念・価値観(知識の幅と深さ)・関心事に依存している。


情報と関連語句


情報関連には似ている用語が多い。混乱を防止するため、関連する語句と情報の関係を整理する。


対象を観測することにより、データが生まれる。自然の景観はデータである。「外部からの刺激」とも言う。データを脳内で意味付けすることにより、情報に変化する。自然の景観からわかる何かの兆候は情報である。


情報には生命情報、社会情報、機械情報の3つがある。


外交や軍事の分野で頻繁に出てくる“インテリジェンス”という用語は、意思決定に役立つ“重要な情報”という意味である。簡単に言うとグレードの高い情報のことである。


外交交渉の中身や軍の戦力だけでなく、その土地で育つ作物の種類・量・収穫時期、季節ごとの天候、主要な商取引の中身、流通ルート、取引に関わる企業の役員の情報もインテリジェンスとして扱われることがある。外交や軍事の活動だけでなく、個別企業の活動にも適用することが可能である。


情報を体系化することにより、知識になる。体系化とは、ある一定のルールにしたがって整理整頓して、お互いに関連付けることである。


知識には、大まかにエピステーメ、テクネ、フロネシスの3つの種類がある。


エピステーメはどのような状況でも成立する普遍的な知識のことである

科学的な法則はエピステーメの代表格である。


テクネは広義のモノづくりの知識である。文脈に関係なく、同じ方法に従えば誰でも同じモノをつくることができるという形式知の知識である。工学的な知識がそれに該当する。


フロネシスはエピステーメやテクネを文脈に応じて使いこなす知識である。状況を見極めた即興性が求められる。暗黙知であることが多く、文脈依存の知識であるために一般化することは不可能とまでは言わないが難しいことが多い。フロネシスを形式知に変換することによって新たなテクネが生まれ、そのテクネの使い方に関する新たなフロネシスが生まれる、という流れになる。


世間でよく使われる“知恵”はこのフロネシスに相当し、フロネシスを使って環境にうまく適応することを“知能”とし、フロネシスを多く持っていることを“知性”という表現をする。


共感(感情の共有)が起きる仕組み


情報を通じて、送り手と受け手の間での“共感する”過程は、どのようになっているのであろうか。


送り手側でまず現実世界の事象を認知する。認知によって意味が与えられて情報となる。情報が生まれると、自分の持つ知識によって何らかの感情が発生する。文字を使ってその感情をメッセージとして表現し、相手に送る。


受け手側でメッセージを受信したら、メッセージの意味の解釈が行われて、情報に変換される。情報に対する感情が送り手と同じものであれば、共感が生まれたことになる。送り手と異なる感情が生まれたときは、共感には至らなかったということになる。


受け手と送り手の間で、メッセージとして表現された対象に対する共通の概念が存在することで共通の意味を持った情報が生まれ、共通の感情につながる。


特定の概念を持っているかどうかは、身体能力や身体経験が影響する。


まだ走ることができない幼児に「ジャンプして」と伝えても“ジャンプ”の意味を理解してもらうことは難しい。他人がジャンプする姿を見ることはできるが、自分の中での感覚がわからないため、幼児はその意味を正確に理解することはできない。体のどの部分にどのくらいの力をどのタイミングで込めればいいのか、それを行うと自分の身体や周辺で何が起きるのか、ということは伝わらない。カレーライスを食べたことのない人に、カレーライスの味を文章で正確に伝えようとするほど、難しいものはない。


また、インドで暮らしたことのない人に「インドでの生活」と伝えても、その意味を正確に理解してもらうことはできない。動画サイトやブログ等でインドに関する様々な情報を断片的には入手できるが、“毎日カレーを食べることになるのかな”や“通勤電車に乗ると大変そう”くらいのことしか想像できないであろう。


“歩道を歩くときでさえも前後左右・足元・頭上あらゆる方向に注意を向ける”や“車で5分の距離でも30分の時間を見込んでおく”ようなことが生活上は普通になる。そのことを聞いても、「なぜ?」という疑問が湧いてくるだけであるが、現地で実際に体験してみると「なるほど」と思うようになる。


とある有名なゲームソフトに“パルプンテ”と呼ばれる“何が起きるかわからない(唱えてみてのお楽しみ)”の不思議な魔法の呪文があるが、インドの街中に出ると“5分おきにパルプンテを唱えるような生活”が待っている。「インドでの生活」の体験を持たない人に「インドでの生活」という言葉を伝えても、そこまでの意味は伝わらない。共通の概念を持っていないためである。


意味の表現


認知した内容を言語の空間に投影すると「言葉」になる。音の空間に投影したものは「音楽」となり、言語と音の空間に投影したものは「歌」となり、言語と音と映像の空間に投影したものは「映画」となる。


このことから言えるのは、「重要なのは表にある内容ではなく、裏にある“相手が思い描いた中身”こそが重要である」ということである。相手の意図、しぐさ、ジェスチャー、置かれた状況・立場、言葉の使い方の変化等、様々なシグナルから意味を理解するように努めることが、肝要である。

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