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戦略の威力

現代でも戦略の立案と実行のお手本となり、ビジネスパーソンにとって大きなインスピレーションに満ち溢れているのが、アレクサンドロス3世によるペルシャ遠征の物語である。戦略の威力を示す格好の題材である。


アレクサンドロス3世は、紀元前356年~紀元前323年にかけて活躍した、古代マケドニアの若き国王であった。古代マケドニアは、ギリシャ世界の一部であった。アレクサンドロス3世は、学校の世界史の授業でもお馴染みの存在である。


偉大な父王フィリッポス2世の後を継いで若くしてマケドニア国王となり、ギリシャ・エジプト・小アジア(現在のトルコ一帯)・中東・中央アジア・インド北西部の広大な地域を征服してヘレニズム時代の到来をもたらした。


アレクサンドロス3世は、古代から現代に至るまで盛んに研究されており、ハンニバル、ユリウス・カエサル、メディチ家、ハプスブルク家、フリードリッヒ大王、ナポレオン・ボナパルト、ジョージ・ワシントン等の政治・軍事に関わる人たちや、テッド・ターナー(CNN創始者)、J・P・モルガン等の起業家たちから、その戦略が参考にされた。地政学的に非常に入り組んだ地域である、アフガニスタンの安定的な統治に成功した、数少ない為政者としても知られている。


古代マケドニアは古代ギリシャの中で辺境の地に位置する後進地域であった。しかし、父王フィリッポス2世のときに総合的な国力を大きく向上させて、ギリシャの各都市国家との覇権争いに勝利し、ギリシャ世界の覇者となった。


それと同時に、国外からアリストテレス等の著名な学者や、戦士の国スパルタ出身の厳格な兵法者を招いて、ミエザの地に学園都市をつくり、後進となる幹部の育成に努めた。そこで共に育った幹部は「ヘタイロイ(王の友)」と呼ばれ、後のペルシャ遠征で重要な役割を担うことになった。


ミエザでは、現在の「リベラル・アーツ」を含む幅広い学問(哲学、文学、数学、物理学、工学、植物学、医学、薬学、天文学、地学、芸術、弁論術等)が、細分化されることなく統合された形で教授された。万学の祖アリストテレスだからこそできる技であった。


そして、回廊を歩き周りながら議論を重ねるスタイル、今で言うところの「ケーススタディ」のような方法で知識を深める、という学習方法が採用されていた。学習の後にはちょっとした任務が生徒に与えられて、生徒は現実に起きている政治的・軍事的な課題を解決する、という実践の場を体験した。


また、頭だけでなく身体を鍛えることも重視され、40kgの荷物を背負っての昼夜を問わない行軍、地べたで寝ること・粗末な物を食べること、戦闘その他の軍事訓練・体力づくりなど、一般の兵士が経験する以上の過酷な訓練が容赦なく行われた。そうした環境の下で学友たちと切磋琢磨して実力を磨き、政治・軍事の実践経験を積んだのが、アレクサンドロス3世だった。


アレクサンドロス3世にまつわる壮大な物語については既存の優れた著作物を参照していただきたい。本書では、当時世界最大の先進国・軍事大国・経済大国であった「アケメネス朝ペルシャに対する戦略」にフォーカスして論じる。


父王フィリッポス2世は、ギリシャを支配下に治めて、ギリシャの積年の宿敵であるアケメネス朝ペルシャに対して遠征を計画していた。しかし、まさにそのとき、娘クレオパトラ(アレクサンドロス3世にとっての妹)の結婚式の最中に、護衛士である男によって暗殺された。個人的な恨みとも、アケメネス朝ペルシャが手を回したとも言われているが、真相は闇の中である。


その後、後継者争いに勝利したのがアレクサンドロス3世であった。ギリシャ都市国家の反乱を電光石火の勢いで鎮圧し、瞬く間にギリシャ連合の盟主となった。父王の意志を継いでアケメネス朝ペルシャに対して遠征を開始することになった。


当時、アケメネス朝ペルシャは世界最大の帝国であり、小アジア・西アジア・エジプト・中東を支配していました。財政的にも軍事的にも、マケドニアをはるかにしのぐ規模を誇っており、とくに海軍に関しては地中海において絶大な影響力を持っていた。しかし、広大な地域を長年統治することによるほころびも見え始めており、政権の内部では、弱体化が進んでいた。 


一方のマケドニアにも大きな課題があった。父王フィリッポスの積極的な財政によって出費が重なり、国内が財政破綻寸前の状態に陥っていた。そのため、遠征のための自前の海軍が編成できず、ヘレスポントス海峡(現在のダーダネルス海峡)を渡ってペルシャ帝国の西部(小アジアの西端、トルコ西部)に侵攻する際には、一定の海軍力があったアテネに支援を依頼することになった。


ペルシャ帝国に比べて貧弱な海軍しか編成できないマケドニア軍は常に後方や補給の脅威にさらされ、相手国の海軍によって制海権を奪われ、本国との連絡線・補給線が遮断されてしまいかねない状況であった。


しかし、マケドニアには、アレクサンドロス3世ともに切磋琢磨して実力を磨いてきたヘタイロイの重装騎兵部隊や、父王フィリッポス2世が長い年月をかけて鍛え上げた歩兵部隊があった。アレクサンドロス3世が率いる陸軍は、重火器が登場する前までは史上最強と称されるほどの実力を持っていた。


遠征を開始したマケドニア軍は、短期決戦での勝利、ペルシャ帝国の(大軍を動かせる)幹線道路(通称「王の道」)の封鎖、沿岸主要都市(海軍基地)の降伏、を目指した。


背後の安全と補給に不安のあるマケドニア軍は、短期決戦に持ち込んで、初戦での勝利を狙った。初戦で相手戦力をせん滅して勝利し、大軍を動かせる王の道を西の端で封鎖した上で、相手が体制を立て直す前に沿岸主要都市を降伏させることが可能になる。


一方のペルシャ軍は、ペルシャ王の信任が厚いギリシャ人傭兵隊長のメムノンがマケドニア側の陸軍戦力の優位性を考慮し、焦土作戦による持久戦を主張した。しかし、小アジアの各州を政治的・軍事的に治める総督たち(通称サトラペ)が難色を示し、短期決戦を行うことになった。


グラニコス川の河畔で両軍の会戦が行われ、結果としてマケドニアが大勝した。ペルシャはサトラペ数名が戦死して大敗し、小アジアの戦力が事実上消滅した。


マケドニアはこの勝利を活用して、ペルシャ帝国の地中海の沿岸主要都市に対して以下のような条件の下で自軍に降伏するように迫った。


・自治を約束する(マケドニアは行政には介入しない)

・マケドニアが推す有力者を行政長官に据えて統治する

・財政はギリシャ人、軍事はマケドニア人が担う


すでにペルシャ軍の小アジアの連合軍が壊滅し、ペルシャ本国からの救援がすぐに来ないことがわかると、多くの沿岸主要都市は降伏した。マケドニアが小アジアの沿岸主要都市を押さえたことで、ペルシャ海軍は小アジアにおける補給基地を失い、活動に制限を受けるようになった。


マケドニアは、海軍力の劣勢を覆すために、海上からペルシャの海軍と戦うのではなく、自軍が優勢な陸上から海軍の基地を攻撃して奪い、補給できないようにすることで相手の海軍力を無力化しようとした。


その後、マケドニアは地中海の沿岸に沿って南下し、地中海の主要港を次々と攻略した。エジプト一帯の地域をペルシャ帝国から解放してマケドニアの支配下とし、地中海の全てのペルシャ海軍の基地を無力化することに成功した。地中海の制海権を握ったことで背後から襲われる危険がなくなった。


万全の体制を整えたマケドニア軍はペルシャ本国に向けて進軍を開始し、ガウガメラの会戦でペルシャ本国の軍を壊滅させ、首都ペルセポリスおよび東方地域を制圧することに成功した。


ペルシャに比べてわずかな経営資源しか持たなかったマケドニアが、相手が短期決戦せざるを得ない状況に持ち込み、自らの土俵で相手と戦うことによって、鮮やかに一気に勝負を決めたのであった。戦略の威力がわかる事例である。

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