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戦略の名著の使い方と留意点
戦略の名著で説明されている理論と現実世界との間には、埋めがたい大きな溝があります。 現実世界で起きる物事は非常に複雑であり、文脈依存であり(一般論として論じにくく)、かつ規模も大きい(境界線を引きづらい)ことから、全体を把握できることはまずありません。
また、他の物事との関係性によって相互作用が生じることがあり、状態が変化することがあります。 そのような複雑な現実に対して、名著の中の理論で述べられている内容を”字面のまま”当てはめようとすると、うまくいかないことがほとんどです。
そうするよりも、自らの実務経験によって名著で述べられている内容を咀嚼し、自分なりの教訓を得よう・自分なりに解釈しようとするほうが多くの学びが得られます。学びが活かせそうな場では使い、無理がありそうな場ではあえて使わない(引き出しにしまっておく)という判断を適切に行います。
戦略の使い方は自動車の運転と同じです。 教科書に書かれている絵や文章から運転技術を学ぼうとしても、多分に感覚的な技術であるため、実際の運転の経験を通じてしか技術を学ぶことができません。運転シミュレーターを使った疑似体験による学習にも限界があります。
運転方法を余すところなく文章として言語化するのはそもそも不可能です。文章として言語化された運転方法を余すところなく車道で実際に再現することも不可能です。
「理解」に近づくには、大量のパターンをひたすら学習するという方法もあります。しかし、それによって運転の精度が上がるのかというと、そうとも言い切れない現実があります。自動運転の技術の開発が始まってから随分と時間が経ちますが、まだ人間並みの運転には程遠い状況です。整備された都市の中の限られた一区画ではそれなりの自動運転が可能になっていますが、”整備されていない街の中、人も動物もランダムに複雑に行き交い、信号無視や交通ルール無視は当たり前、スポット的な予想できない障害物が次々と現れる”ような道路の場合、自動運転は絶望的です。
何が言いたいかというと、伝える側だけでなく、それを受け取る側、読み手側にも一定の経験やレベルが求められるということです。一定の経験やレベルを持っていない中でその知識を受け取ってもうまく吸収できず、誤解さえ生じてしまうことがあります。
一例ですが、仏教の一派である真言密教では理趣経と呼ばれる経典の意味を、一定レベルに達した者にしか教えていません。仏教は禁欲を旨とする宗教ですが、その中の一経典である理趣経は欲望を大いに肯定して生命や人間を賛美する内容となっており、誤解される要素に満ちています。
名著を深く理解するには、自ら実務を通して地道に研鑽を積む以外には方法がありません。しかし、研鑽を積み重ねれば、名著の内容を咀嚼して自らが吸収できる形にすることができ、実践にも応用できる果実を手に入れることができるようになります。